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帰  郷

作者: 西禄屋斗

 ここまで来ておきながら、俺はこれ以上、進むことをためらった。


 真夏の空の下。照りつける日射しはジリジリと肌を焼き、Tシャツをぐっしょりと濡らすほど、体中から汗を噴き出させている。暑い。咽喉がカラカラだ。ねっとりとまとわりつくようなムッとする空気は、吸うだけで息苦しいような気になり、頭もガンガンと痛くなってきた。


 さらに追い打ちでもかけるかのように、今が盛りと鳴く蝉の声が五月雨さみだれのように降り注ぐ。それを聞いているだけで俺はイライラしてきた。子供の頃はいつも捕虫網を持ち、無我夢中で昆虫採集ばかりしていたのに、今は耳障りな存在としか思えない。


 しかし、俺が足を止めているのは、そんな酷暑のせいばかりではなかった。


 目の前には懐かしい坂道。まだアスファルトで舗装されていない砂利だらけの坂だ。傾斜はきつくないが、やたらとだらだら続いている。


 この先を行けば、俺が生まれ育った生家だ。多分、この坂道と同様、何も変わってやしないだろう。俺は七年ぶりに故郷に帰って来た。


 俺が東京へ出たのは、高校を卒業してすぐのことだ。受験した東京の大学はすべて落ちてしまったが、それでもこの田舎町から早く出て行きたいという願望の方が勝った。


「とにかく、東京でバイトしながら勉強する! 俺にはやりたいことがあるんだから!」


 親には、そう啖呵を切った。もう、山と畑しかない田舎暮らしには飽き飽きしていたのだ。


 そんな俺の無計画さに、当然、お袋も心配したが、それよりも親父の反対の方が強烈だった。


「東京には、何ひとつとして本物はねえ。そんなところへ行ったって、本物の人間にはなれやしねえ」


 それが親父の口癖だった。


 親父は、この土地で生まれて以来、一度も他県へ行ったことがないと、普段から豪語していた。なぜならば、他へ行く必要がなかったから、というのが、親父の弁である。俺は、そんな親父の生き方に反発していた。


 毎日毎日、親父はトマト作りに励んでいた。別に農業を馬鹿にはしていないが、趣味らしいものをひとつも持たず、一泊旅行どころか、たった一日のドライブといった家族サービスもなし。ただ休みなしに働いて、夜は酒を飲んで寝る、という繰り返しでは、人生の面白みに欠けると俺は思う。そんな人間に “本物” の何たるかが分かるというのだろうか。


 だからといって、俺も親父を見返せるような、胸を張っての帰郷とはならなかった。念願の東京で暮らし始めたものの、バイトと夜遊びで受験勉強をしている暇がなく、結局、二浪しても希望の大学に行けずじまい。仕方なしに就職しようと思っても、自分が本当にやりたいことが見つからず、しばらくは職を転々としていた。


 今はアルバイトで働いていた伝手つてから、パチンコ屋の店長代理みたいなことをやっているが、それがわざわざ東京へ行ってまでやりたかったことなのかと言われれば、残念ながらグウの音も出ない。


 そんなわけで、七年前の思惑など脆くも崩れ、故郷に錦を飾ることが出来ない俺は、どんな顔で帰っていいものやら見当もつかず、ただただ途方に暮れていた。


 ところが、偏屈な親父とは違い、おなかを痛めて産んでくれたお袋とは有り難いもので、こんな俺をいつでも気にかけてくれていた。週に一回か十日に一遍、俺に電話をしてきては、何か困ったことはないか、何か送って欲しいものはないか、と尋ねてくれるのである。それは正直なところ、わずらわしさもあったけれど、知り合いもいない東京で一人暮らしをする俺にとっては、捨てたはずの故郷と繋がっていられる唯一の糸だった。


 そのお袋がこのところ、お盆休みに帰ってきたらどうか、と俺にしつこく勧めてきていた。きっと七年も経って、息子の顔を懐かしがっているのだろう。俺は、そのたびに言葉を濁してきたが、思いがけない夏休みをオーナーから頂戴することになり、それならばと、とりあえず新幹線に飛び乗ったのだった。


 しかし、その勢いは地元の駅に降りたときから失せていた。何よりも気が重いのは、親父と顔を合わせなくてはいけないことだ。未だに自分のしたいことが見つからず、適当な仕事に就いていることを知られれば、七年前に自分の言ったことが正しかっただろう、と親父に説教されるに決まっている。何しろ、俺は東京で “本物” とやらを見つけることが出来なかったのだから。


 とは言え、これから再び三十分かけて駅へ引き返すのもしんどい話だった。こんな炎天下の中、これ以上、歩いたら死んでしまいそうだ。それよりはあと五分とかからない実家に帰った方が利口というものだろう。


 俺は、渋々、先へ進むことにした。もう、踏み出す一歩一歩が鉛のように重い。しばらく、まともな運動をしていなかったなあ、と自省した。


 家に到着した。予想していた通り、やはり何も変わっていない。どうせ、親父もお袋もビニールハウスに行っていて留守のはずだ。俺は裏手に回った。


 縁側の軒先には風鈴が涼しげな音を立てていた。案の定、こちら側は鍵がかかっていないどころか、庭に面した戸が開けっ放しである。田舎はこういうところが無頓着だ。


 俺は倒れ込むように家へ上がり込むと、這うようにして台所まで行った。冷蔵庫を開け、ドアポケットにあった麦茶を手にする。夏の必需品だ。俺はコップに注ぐのももどかしく、ひんやりとしたガラス容器の口から、そのまま麦茶を飲んだ。


「んぐっ、んぐっ、んぐっ……」


 ひどく咽喉が渇いていた俺は、一気に半分くらいの麦茶を飲み干してしまった。あまりの冷たさに、こめかみの辺りが、きーん、と痛くなったが構わない。これでようやくひと心地つけた。


 そのとき、誰かが帰って来る音がした。


秀夫ひでお……!」


「ただいま」


 台所にやって来たお袋は、冷蔵庫の前で座り込んで麦茶を飲んでいる俺を見て、驚いたような顔をしていた。俺はちょっと照れ臭くなってしまう。


「帰って来るなら帰って来るで、連絡してくれればよかったのに」


 お袋は農作業用のエプロンを外しながら言った。夕飯の支度があるので、お袋は親父よりも早く戻って来るのが常だ。親父の帰宅は、もう少し遅い時間になる。


「急に休みをもらえたもんだから。――あっ、コレ、土産ね。食べてよ」


 俺はバッグから菓子折りを取り出し、お袋に渡した。中身は水ようかんだ。和菓子は甘い物好きな母の好物である。息子からの初めての手土産に、お袋は嬉しそうな顔をした。


「汗掻いただろ? すぐに風呂を沸かすから、自分の部屋に荷物を置いておいで」


 お袋に言われた通り、俺は二階にある自分の部屋に行った。ここも七年前に俺が出て行ったときのままだ。本当にあれから七年が経ったのか。東京での暮らしが、実はすべて夢だったのではないか、と俺は疑いたくなった。


 捨てられもせずに残っていた懐かしいマンガや中学の頃の卒業アルバムをめくっているうちに、風呂が沸いた、と階下からお袋の声が聞こえた。体中、汗でベトベトの俺は、すぐさま着替えを持って風呂場に行き、着ているものすべてを洗濯カゴに投げ入れた。


 さっと汗を流したところで、俺は湯船に浸かった。実際のところ、東京ではシャワーばかりだったので、こうしてしっかり風呂に入るのは七年ぶりである。ここは実家なんだな、という感慨がようやく湧いた。


 久しぶりに肩まで湯に浸かり、俺はふーっと大きく息を吐いた。やっぱり、風呂はいい。生き返ったような気分になる。何だか、年寄りみたいな言い草だけど。


 湯船に浸かりながら、俺は窓から外の景色を眺めた。薄暮が山々を青いシルエットに変え、水墨画のような微妙なコントラストの景観を作り出している。あれだけ昼間うるさかった蝉の鳴き声は遠のき、今は鈴虫が夜の訪れを告げていた。


 その他はとても静かだ。ごみごみとした人の気配は感じられず、車やバイクが走る音も、携帯電話の着信音も聞こえない。東京とは、まるで違った。


 そろそろ風呂から揚がろうかと考えていると、玄関が開く音がして、次にお袋の声がした。


「お帰りなさい。あなた、秀夫が帰って来ているのよ」


 どうやら親父が帰って来たようだ。ところが親父はお袋に何か返事をしたような様子がない。てっきり、出て行かせろ、とか薄情な言葉を吐くのかと予想していたのだが。


 俺は風呂を切り上げると、親父と顔を合わさぬよう、忍び足で二階に上がった。別に親父が怖くて逃げているわけではない。不快な思いをする瞬間を先延ばしにしているだけだ。


 自室に戻った俺は、窓を開けて外の風を入れた。東京よりも夜風が涼しい。室外機の熱風が迷い込んで来ないせいもあるだろう。


 団扇うちわを煽ぎながら夜空を見上げると、星が瞬いているのが見えた。これも東京とは違う。月まで輝きが増しているように感じられた。


「秀夫、ごはんよ!」


 また階下からお袋の呼ぶ声がかかった。いよいよか。茶の間には親父もいるはずだ。今度こそ、顔を合わせなければならない。


 俺は意を決して階段を下りた。親父に何を言われようが我慢だ。確かに、今の俺はフラフラしているけれど、まだ二十五歳、人生はこれからの方が長い。いつか、ちゃんとした職に就いて、俺のことを認めさせてやる。


 と勢い込んで茶の間に行った俺だったが、そこには先に夕飯を食べているお袋しかおらず、思い切り拍子抜けした。俺はお袋に尋ねる。


「親父は?」


「縁側よ」


 俺は夕飯の席には座らず、そっと縁側を覗いた。


 親父は縁側に胡坐あぐらをかき、庭を眺めながらビールを飲んでいた。つまみは枝豆。ランニング・シャツにステテコ姿である。そう言えば、ここが親父にとって、夏の指定席だったことを俺は思い出した。


 子供の頃、俺はこの縁側のある庭で、ウチにある井戸でよく冷やしておいたスイカを食べながら、家庭用の花火をして遊んだ。親父は、そんな俺を眺めながら、こうしてビールを飲んでいたのものである。


 あの当時に比べ、親父の後ろ姿はやけに小さく、ひと回りしぼんでしまったような気がした。少なくとも七年前までは、あんなに頭頂部が薄くなっていなかったし、ランニング・シャツから剥き出しになった二の腕だって、もう少し筋肉がついていて細く見えなかったはずだ。俺が子供から成人へと成長したせいもあるだろうが、同時に親父が老いたことも悟った。


「………」


 これが親父だったか、と俺はハッと胸を衝かれるような思いがした。気難しかった性格ばかりが思い出され、あの頃は親父が家にいるだけで威圧感があったのに。それが今ではすっかりと色褪せてしまい、今、目の前の縁側に座っているのは、まるでどこぞのご隠居みたいだった。


 変わった。山や畑、家といった風景は昔のままだったけれど、親父だけは変わってしまった。たった七年という歳月の間に。


「秀夫」


 こちらを振り向くことなく、親父が俺の名を呼んだ。一瞬、俺はぎくりとする。でも声に昔のような張りはなかった。


「お前、ビールは飲めるのか?」


「えっ? ――ああ」


 俺も二十五になって、人並みに酒を覚えた。毎日、晩酌代わりに缶ビール一本くらいは飲む。


 すると親父は、汗を掻いたビール瓶を持ち上げた。一緒に飲まないかというジェスチャーだろう。


 俺は台所に行き、新しいグラスを取って来た。そして、親父の隣に座る。


 親父は俺のグラスにビールを注いだ。泡がこぼれそうになるくらいいっぱいに。オレも返杯として、ビール瓶を受け取り、すでに空になっていた親父のグラスに注いでやった。


 別に乾杯をするわけでもなく、俺たちは黙って、ビールをグッと煽った。ひりつくような刺激が咽喉を通り抜ける。俺は一気にグラスを空にしてから、大袈裟なくらい「ぷはーっ!」と声を洩らした。


 すると親父は、また新しいビール瓶の栓を抜くと、俺のグラスに二杯目のビールを注いだ。親父のグラスには、まだ半分以上も中身が残っている。親父は枝豆をつまみにしながら、ちびり、ちびり、と飲んでいた。せっかくのビールの泡が掻き消えてしまうのも構わずに。


 こうして俺と親父が並んでビールを飲むなんて、これまで想像だにしなかった。これも俺が大人になったということなのだろうか。俺は横目で、親父の顔を盗み見た。


 親父は何も言わず、ビールと枝豆を口にしていた。てっきり、七年前の口論と東京へ出ても未だにくすぶっている俺に対し、ガミガミと小言を言うんじゃないかと覚悟していたのだが、そんな素振りはまったくなかった。こんな大人しい親父と対面することになろうとは。


 一緒にビールを飲もうと誘ってくれたのは、親父も少しは俺のことを一人前だと認めているからだろうか。


 俺たちは父子らしい会話をするわけでもなく、ただ縁側に座ってビールを飲み交わし続けた。


 庭に一匹のホタルが迷い込んだのを俺たちは静かに眺めた。






 一年後、俺は再び帰省した。


 縁側に立ち、夜風に揺れる風鈴の音を聞きながら、去年と同じように俺は庭を眺めていた。あのときのようにホタルは飛んでいないが、相変わらず、山も畑も記憶の風景のままだ。何処か遠くで、ロケット花火が弾ける乾いた音がした。


 俺は首のネクタイを緩めた。一人で縁側に座り、ややぬるくなりかけたビールをグラスに注ぐ。泡がこぼれて、俺の指先を濡らした。俺はしばらく、それをジッとして見つめていたが、やがて、それをひと飲みにした。


 部屋の方を振り返れば、親父の顔があった。親父の遺影が。


 俺が七年ぶりに帰郷してから一年。親父は肺炎で死んだ。享年六十三歳だった。


 もう一年以上も前から、親父の体力は衰えていたらしい。しかし、お袋が何と言おうと、あの頑固者は、なかなか病院へ行こうとしなかった。救急車で運ばれたときには、もう手の施しようがなかったという。医師には同情されるよりも、悪化するまで放置していたことを半ば呆れられた。


 お袋があれだけ俺に帰省するよう言っていたのも、親父のことがあったからだと、今頃になって気づかされた。確かに、あのときの親父は老けこんだように見えたものだ。けれども、わずか一年で亡くなってしまうほど具合が悪かったとは疑いもしなかった。


 翌日には東京へ戻った俺にとって、あれが親父との最後だった。俺が翌朝に起きたとき、すでに親父はビニールハウスへ出かけてしまったあとだったからだ。


 あのとき、何か話しておくべきだったのではないだろうか。俺はそんなことを振り返った。俺のことを。或いは親父のことを。もっと話しておけば良かったんじゃないだろうか。


 それなのに俺は、親父が黙っているのをいいことに、何も喋ろうとしなかった。今の俺のことなんか話したら、親父に何か言われるんじゃないかと思い、情けなくも首をすぼめていたのだ。臆病者め。それが何となく悔やまれた。でも、親父が死んでしまった今となっては、取り返しはつかない。


 俺は通夜の弔問客が帰った霊前の前へ行き、そこでまたビールを飲んだ。とても苦々しい味。ビールがこんなに苦いと感じるのは何年ぶりだろう。また、いくら飲んでも、今日に限っては、まったく酔いが回って来なかった。


「親父……」


 俺は親父の遺影を見つめた。ふと思いついて、使っていたグラスを霊前に供え、なみなみとビールを注いだ。


 ――あっちでも飲んでくれよ。


 俺は心の中で語りかけた。


 ようやく片付けを終えたお袋が俺の隣に座って、絶えかけた線香を供えると、霊前に手を合わせた。


 お袋も一人になってしまったのだな、としみじみ思う。今はあれこれと忙しく、気が張っているからいいだろうが、初七日が終わって、俺も東京へ戻ってしまったら、きっと寂しい想いをするはずだ。


 俺は決めた。


「お袋……俺、トマト作りするよ」


「秀夫……」


 お袋は驚いて、目を丸くした。


「一人じゃ農作業も大変だろ? 多分、教えてもらわなきゃいけないことが山ほどあると思うけど、ビニールハウスを潰すのは勿体ないし。ここで一緒に暮らすよ」


「そうかい。お前がそう言うなら、そうするがいいさ」


 お袋はそううなずいて、もう一度、親父の遺影に拝んだ。きっと報告をしているのだろう。


 俺も遺影を見つめた。今なら、真っ直ぐに顔を向けることが出来る。


「親父、見ていてくれよ」


 線香の煙がたなびく霊前に俺は誓った。

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[一言] しんみり染み渡るような、いいお話だと思いました。 会いたくない、気まずい。 だからろくに話せず、それが最期になるとは。 小さくなったと感じた背中ではなく、恐れていた頃の背中で、そっと秀夫…
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